仏教における「自我」というテーマは、どれほど哲学的にファンシーな言葉で取り繕おうとも(それを「戯論(けろん)」と呼ぶのですが)、三法印に入っている「諸法無我」の洗礼により、最後は溶解させられてしまうという定めを持ちます。一生懸命にその存在をホールドしようとして、それこそ「自己主張」しても、その現象は知覚の過ちや観念および妄想の総体であり、結局は「煩悩」や「執着」ですね、はい「苦」のスタートですね、という結論です。安らかに眠れ。
とはいえ、これが中々「安らかに眠れ」ないところが、人類の苦しみな訳ですよね。事実、煩悩・執着の中でもっとも削りにくいのが「我執」なわけで、ここで言う「我」がとりもなおさず「自我」なのですから。そうした意味で、やはり特別な意味を与えられてしかるべき「コンセプト」です。存在はしないのですけど。
対談後半には、ご門主から「受動意識仮説」を知っていたら説明して下さいと突発的な依頼が出ました。これは、私の前の職場の同僚で研究所の上司でもあった前野教授が「意識は幻なのか?」という問いに対する答えとして提案した仮説で、私もよく知っていたため解説しました。よいYoutube動画がこちらにあります。ちょうど動画を見ながらとった古いメモ(handwritingが汚い)があったので、それを画面共有しながら解説しました。視聴者からは「意外と分かりやすい」と言ってもらえたので、何よりです。下記参照:
結局「自我」や「(自)意識」は、仏教心理学的にも、認知科学のいくつかの流派的にも、「あるようで本当はない」のですが、少なくとも「本当はないのにあると勘違いしてしまう」ほどには「現実的」で肉感的です。21世紀に生きる慌ただしい凡夫としては、とりあえず結論は保留して、それに「振り回されないようにしよう(執着し過ぎないようにしよう)」という点を注意して生きて行きましょう、という辺りが、今回の落としどころだったかと思います。