【終了報告】6/11(土)「21世紀的対機説法」第2回「何をして生きるのか?<大欲>」が開催されました!

第2回目は「大欲」と題し、3者でそれぞれの立場から議論をしました。「大欲」という言葉自体、真宗系ではあまり聞かない言葉ですよね、という確認から入りつつ、まずは光輪門主が、破戒僧にして名僧、一休宗純のエピソードから場を開きました。「とにかく長生きしたい(小欲)」ので「阿弥陀さんに取り次いでもらいたい」と相談して来た老人に対して、一休さんは、「了解した。では、あと何年生きたいかね?」と尋ねる。20年、30年…と伸ばすも「そんなもんでいいのかね?」と煽る一休さんに老人はギブアップし、自分の欲に限りがないことを認識しつつも、よく分からなくなります。そこで一休さんが、「そんな『小さな欲』ではなくて、もっと『大きな欲』つまりは『永遠の命』である『極楽往生』を狙ってはどうじゃ?」と喝破するといういうオチ。

臨済禅宗の老師が、小欲・大欲という真言宗的なテーマを肴に、真宗的な極楽往生を説く、という縦横無尽な感じが、まさに「融通無碍」を看板とする禅の面目躍如であると同時に、いかにこのテーマがどの宗派の根幹とも直結するかが鮮やかに示されたオープニングだったと思います。続いては、私が最もマニア的知識を持つ真言密教においての話。この宗派が最も大事にしている般若理趣経の「百字偈」の中に登場する「大欲得清浄(たいよくとくせいせい)」を引き合いに、なぜ真言密教では一見「欲を積極的に肯定する」かのような態度が見えるかについて話しました。我々凡夫がいま持っている「欲」を卑下する必要は微塵もなく、抽象度を上げてその先にある大欲の方向性さえ確認できれば、それがまさに人生の目的になるのでは、という点を、コーチングの観点からHirokiさんが受けて話を展開していきました。

真宗的な観点から、「欲」を「願い」と言い換えることも大事だ、という視点も提示されましたね。そもそも、実は「小欲」・「大欲」とレッテルを張り分けること自体がとてつもない「執着」であり、この執着こそが、「本来は清浄」であるはずの「欲/願い」をべたべたする私利私欲なそれにしてしまう原因となる。「菩薩の眼」や「阿弥陀仏の眼」から見れば、まさに「大欲得清浄(たいよくとくせいせい)」。そう見られないのは、邪な認知の歪み・バイアスである、と論が進むのが認知科学的な教学である仏教らしさ。その根本には、大事な「諸法無我」を忘れた我々凡夫の無知なる煩悩があります。

「物欲」と並んで必ず登場する「性欲」ですが、こちらも理趣経では「妙適清浄句是菩薩位(びょうてきせいせいくしほさい)」と喝破され、「妙適」という素敵な呼称もそうですが、それがそのまま「菩薩の位である」という断言が、まさに「菩薩の眼」を感じさせます。そこから流れて、光輪さんが「真言立川流」に言及し、私がインドでの中期密教と後期密教との話に触れた辺りで、このままでは戻って来れなくなる…とお互いに自制がかかり、上手に次回への流れが作れたところでお開きとなりました。